開所初期の⽔事情
施設開設、開始には⽣活⽤⽔の確保が⼤変だった。
最初は、保養園の建物より100メートルほど東側の⼭中の湧⽔を⼟管を埋設して引き、建物の近くに濾過槽を⼆箇所作り、濾過した⽔を使⽤していた。
年数がたつと、⼟管の継ぎ⽬に草の根がはびこり、⽔の通りが悪くなり⼿⼊れが⼤変だった。 その後、⼟管をヒュウム管に交換した。
⾵呂⽤には、⾬⽔も利⽤する。⾬が降り出すと、⼦ども達を動員しバケツやタライを並べ、溜まった⽔を⾵呂に⼊れ沸かす。
晴天続きの時には、歩いて三好町の銭湯まで⾏った。⼭道を歩いて帰ってくると、汗びっしょりになった、など苦労した。
昭和45年 ⾷堂棟改築の時は、今迄使っていた銅張りの⾵呂桶を、昭和17年最初の建築資材を運搬した「⾚⽜」のための⽜⼩屋に据え付け、外の景⾊を眺められる⾵呂場になった。
井⼾より⽔を運び、薪を焚いてお⽉⾒も出来るなんとも⾔えない楽しい⼊浴場になった。
井⼾を3か所に掘る
① ⼀番⾼い位置の井⼾
井⼾を掘ったら五間(2.75m)ほど下から海底の砂利と思われる⼟砂が⼤量に出て来た、この辺は第三紀層で、何万年か前に海底だったのが隆起して、今の⼭となったもの、⼤⾃然の悠久さに較べると⼈⽣など⼀瞬の夢だ、と「松井鳳平」は、昭和32年北信毎⽇の記者に語っている。
「⼭では、⼀滴の⽔も ⾎の如し」と書いた札を、井⼾の横のポンプ⼩屋に付けた。また昭和32年の春、神奈川県の養⽼院で⽕事があった。
厚⽣省は、⼆階建てのものには必ず⾮常脱出⽤すべり台を取り付けると共に、消防ポンプも設備するように厳重な通達をして来た。
すべり台の⼯費5万円、消防ポンプ購⼊費20万円、この経費は「松井鳳平の⾃腹」で⽀払われた。S32年北信毎⽇の記事にある。
② 建物に近い井⼾
⾵呂の⽔、飲⾷、そうめん、スイカやトマトなど野菜を冷やすために重宝した。
夏は冷たく冬は温かく、おいしい⽔だった。
③ 三番⽬の井⼾
この井⼾は⽜⼩屋のそば、⽜たちの世話に、畑の⽔やりに使⽤した。
令和2年、⽜⼩屋は保養園の職員駐⾞場にするため取り壊す。
洗濯物の多いときは、カゴに洗濯物を⼊れ背負って下の川(六か村セギ)まで洗濯に⾏くこともあった。
昭和39年(1964)
上⽥市⽔道局の協⼒を得て、お地蔵さんの裏⼿の⼭の⼩⾼い所に貯⽔槽を築造した。
そこへ、保養園より1000メートル下⽅に通っている県営⽔道(合併した川辺村への給⽔⽤)の⽔をポンプアップするため、保養園より600メートル下⽅に(県⽔→上⽥市⽔道→保養園の貯⽔槽へ)これを5 ⾺⼒のモーターで揚⽔する。
揚⽔設備を、共同募⾦会配分⾦と上⽥市補助⾦(220万円)で揚⽔設備(ポンプ⼩屋)その為の⼟地は「松井鳳平」が⾃費で購⼊、そこへ⼩屋を建て、モーターを設置して⽔道⽔が使えるようになったが、使⽤する⽔量と、ポンプアップする⽔量とに差が⽣じ、しばしば貯⽔槽が空になることがあった。
貯⽔量が減って⽔の出が悪くなると、職員は、ポンプ⼩屋まで歩いて⾏き(当時はまだ⾞の普及が今ほどでなかった)ポンプを⼿動に切り替えスイッチを⼊れ、20分から30分間その場で待って、また⾃動に戻して園に帰って来るなど⼤変だった。
貯⽔槽が全く空になると1⽇〜2⽇間は⽔が全く出なくなった。
昭和40年(1965)
9⽉、貯⽔槽が空になり困った時、上⽥市の厚意で市役所のオート三輪⾞で⽔を積んで運んでもらった。
しかし悪路と急坂のため途中で⽔がこぼれ⼭に到着したときは、半分ほどに減っていた。(写真)
貯⽔槽を造ってしばらくすると、貯⽔槽の重みで貯⽔槽沈下、排⽔管にヒビが⼊り漏⽔。
決められた時間にポンプを稼働するのではなく、貯⽔槽の⽔位が下がったら「ポンプが⾃動的に⼊り作動する」ように、電柱に電線を張るための、電柱の使⽤許可を申し⼊れたが、なかなか許可が出なかった。
昭和48年(1973)
3⽉6⽇原峠保養園 理事⻑ 松井鳳平から電報電話上⽥局 局⻑尾崎様宛へ 電話記念⽇に園児が招待受けたお礼と記念品(ミシン)をいただいたお礼状に加え、電柱利⽤申請書を提出。
● 使⽤電柱名・・原峠幹40号-54号使⽤
● 利⽤⽬的・・上記区間⽔⾯リレー配線
● 添加⼯法 ・・電電公社の指⽰のとおり
● 施⼯業者・・更埴市峰村電気商会
● 施⼯予定・・3⽉20⽇頃
● 添加線種・・・・添加料⾦ 電電公社の請求のとおり
3⽉20⽇:電電公社から 「電柱利⽤許可所兼契約書」届く
● 利⽤を許可
● 許可条件
1.公社架設物より上部へ30センチ以上間隔を保つこと
2.道路横断箇所については地上⾼5メートル以上確保のこと
3.利⽤料⾦は無料
4.将来公社の電柱の建替え、移設等で架設物の取り換移設、張替えを必要とする場合は、⾃⼰の負担においてすみやかに⾏うこと
⼯事が終わり、「⽔」の⼼配は⼀応なくなった。
昭和51年(1976)
県企業局は塩⽥地区(特に別所地籍)への給⽔を計画。
そこで、「原峠の峰に貯⽔槽を設置する」「松井の地籍を通る」ことの「了解」を得るため、企業局の職員が訪ねて来た。
最初は「係」が来た。「松井正」は、県⽔が川辺地区への⽔道⼯事の時、「原峠への給⽔」を願い出たが、「あっさりと断られた」こと「県企業局なら須川へ⾏く道は県道だから、⾈窪を通ったら」と県の職員2⼈を連れて⾈窪まで案内した。
2⼈は汗びっしょりになって帰ってきた。 そうして「松井の地籍を通る」 ことを断った。
今度は「係⻑」が来た。「前回と同じ」と断った。
次に「課⻑」が来て、いくつかの交換条件を持ってきた。
・道路を舗装する (「松井鳳平」は、道路完成後上⽥市に道路を寄付した。が上⽥市は、下の⾨から保養園⼊り⼝までの道路登記がしてなく、『法務局の図⾯では「松井正の市道」だったため』)消⽕栓1 個設置する。
それを聞いて松井正は上⽥消防署に相談し、次の要望を提出した。
【要望】
● 舗装コンクリートの厚さは県道の厚さ15cmから20cmと同じくらいの厚さに
● 消⽕栓は、3箇所設置(原峠は、消防署の消⽕困難地域)
● ホースは布引でなくゴム引き 筒先は2本 ・格納庫は⽊製でなく⾦属製
● ⽔道管は途中からではなく峰から
後⽇、企業局からの回答
⾈窪を回ると、地主の数が多くなり交渉が⼤変
それならば「松井の⼟地の東ふちを通る」ことで承知
舗装のコンクリートは、10cm。消⽕栓は2か所
その他は、⼀応OK
送⽔管埋設中は、⽣活⽤品の購⼊など⼤変不便した。
でも企業局は、⾞2台を⽤意し、(⾞の運転は「松井正」が運転する)上と下に置いての利⽤を考えてくれた。
⼯事中ロープを張ることもなく、電球を設置することもなく保養園を訪ねて来た卒園⽣(⼥性)が深い溝に落ちドロだらけになって登ってきた。
怪我は、スリキズ程度だったので良かった。
昭和53年以降〜(1978~)
53・12・6 (1978) ⽔道⼯事完了・・・保養園の⽔道使⽤開始。
54・6・30(1979) 上⽥市⻑より「揚⽔設備の譲渡」の要請があった。
54・7・4 共同募⾦配分⾦で設置した設備処分について共募へ申請する
54.9.13「揚⽔設備」上⽥市へ下記のとおり寄付したことを報告
● 申請:原峠下76番地の2にある
● ポンプ室…軽⽯ブロック造・平屋建て 4.52 ㎡ポンプ⼀式
● 受⽔井、付帯設備⼀式⾨柱、鉄扉、有刺鉄線⼀式、送⽔管原峠下 76-2 より 64-イまで原峠下布設送⽔管⼟地「松井鳳平所有」「寄付」
54.9.28 共募より 「申請の承認」 を受ける。
昭和62・4・23上⽥市各地で⼭⽕事が発⽣した。⻑野⼤学裏⼭から出⽕したとき、企業局が設置した消⽕栓が⼤いに役⽴った。
その後(平成9年) 消⽕栓の位置は「松井正の住宅が新築されたため」道路側に移動した。
池・・・「松井鳳平」は、「虚弱児施設」再発⾜するに防災のことを第⼀に考え、⼭の沢をせき⽌め防⽕⽤に池を2箇所、農閑期に、農家の⼈⼿を頼み造る。
しかし直後の⼤⾬で⼟⼿が流され、⼀度ならず⼆度も造り直した、と聞いている。
平成8年以降〜(1996~)
平成8年、池の浚渫・上の池、下の池共に。危険防⽌のため下の池の⼟⼿にフェンス⼯事。
⼜下の池の中央に⽔抜き溝設置。
平成10年23号・24号台⾵の時、上の池も下の池も⽔が溢れ、⼟⼿を勢いよく乗り越え、もう少し降り続けば堤防の決壊が⼼配されたが持ちこたえた。
池は、昭和62年の⼭⽕事の時は⼤いに、役⽴った。
畑の⽔やり、⼦ども達のスケート練習にも⼀役買っていた。(原峠分室の冬の体育の授業は、下駄スケートをかついで⼭越え、須川湖スケート場へ。途中、⼤声で数学・国語・英語など学習をしながら歩いた、と松井正に聞いている)
国体 (スケート)も⾏なわれた「須川湖」、は温暖化でスケート場閉鎖。
須川の⾃治会⻑さんが、氷の状態を⾒に⾏かれ、氷が割れ池に落ちて亡くなり、以後スケート場を閉鎖。
使わなくなった貸スケート靴を沢⼭頂き、⼭の⼦ども達は靴スケートで練習できるようになり、⻑野市のスケート場にも滑りに⾏った。
平成16年、上の池、下の池共に⼟砂揚げ⼯事。
平成22年12⽉、⽵原重建さんの話・・ポンプは、「もう3回も取り替えた」と病床の「松井正」に伝えていた。
平成24・9・28(2012) 保養園に設置されている消⽕栓の修理について、設置された経緯の説明を求められ、宮坂指導員と松井幸枝(松井正は病気療養中だったので、当時のことを正に聞き)で消防署へ説明に⾏く。(当時の消防署⻑さんは、塩野崎さんか⼩宮⼭さんだったと)
その後、錆びついて動かなかった消⽕栓の修理がされた。
松井幸枝 (鳳平の⼆男 松井正の妻)