草創期と初代園長松井鳳平

当時の様⼦

かつて肺結核は、日本の近代化の歩みにしたがうように国民の間に大流行した病気だった。1940年代に至るまで、日本人の死因の第一位だったため、国を滅ぼす病『亡国病』と呼ばれたほどであった。

原峠保養園の創立者松井鳳平 (1886- 1975)は、上田市三好町に医院を開業して長年近隣の人々の診療にあたるとともに、昭和10年頃から太平洋戦争末期にかけて、上田小県地方の製糸工場の嘱託医を務めていた。

当時の製糸工場の労働環境は極めて過酷だった。そこへ戦時下の食糧事情の悪化による栄養不足が加わり、製糸工場で働く青年勤労者の間に結核感染者が急激に増えていった。感染は工場の中のみに止まらず、やがてそれぞれの家庭へ持ち込まれて家族に拡がった。幼い子どもまでが結核に感染し、遂には一家崩壊、離散に至るという悲惨な事態も少なくなかったのである。

「父が診ていた患者さんの家族も手伝いに来てくれた。私たちも休みの日は山へ通って敷地の石拾いをした。

夕方になると作業の進み具合を見に父が山を登って来るので、サボるわけにいかなかった」と、後に鳳平の長女百合子は語っている。

開所までの苦心

企業嘱託医としてそうした悲劇を間近に見ていた松井鳳平は、この子どもたちの命を救うためには家庭からいったん隔離し、「子ども専用の療養所」で療養させる必要があると考えた。

上田市議会議員でもあった松井鳳平は、同僚議員の飯島新三郎、水野鼎鷹の両氏に小児結核療養所の建設について相談を持ちかけたところ、両氏は快く趣旨に賛同。加えて島田甲子郎氏、工藤巌氏、中村貞蔵氏からも資金提供を受けることができた。

療養所建設にふさわしい澄んだ大気と静かな環境を求め、かねてから趣味の狩猟で歩きなれていた小牧山周辺の山野に、最適と思われる土地を見出した。

これが原峠である。

山林を拓いての建設工事は、まず麓からの道路を造ることから始めなくてはならなかった。

道路用地の買収にかかったが、土地所有者から法外な土地代を請求されたり、整地作業を妨害されたりと様々な苦労があった。

開通した道路は上田市へ寄付した。

建設用重機などない時代のこと、道路建設も敷地の整地もすべて、ツルハシとモッコを使うだけの入力によるものだった。

「父が診ていた患者さんの家族も手伝いに来てくれた。私たちも休みの日は山へ通って敷地の石拾いをした。

夕方になると作業の進み具合を見に父が山を登って来るので、サボるわけにいかなかった」と、後に鳳平の長女百合子は語っている。

ようやく道路が整い、建設許可・病院開設許可を得て、いざ療養所建設に着手としたところで、太平洋戦争が勃発した(昭和16年・1941)。

開戦による保養園の閉鎖

経済統制が厳しくなり、軍需目的以外には新しい建設資材の入手が困難になった。このためやむなく計画を変更し、上田市塩尻地区の使われなくなった古い蚕室の建物を購入し、解体して原峠へ移築することにした。

松井鳳平は後に、当時の苦心を次のように語っている。

「なにぶんにも峠に近い山林のど真ん中のことだから、もちろん道路は整備されていない。その頃の自動車はご存知のとおり代燃車で(ガソリンの代わりに木炭や薪を使う自動車)、あれではこの坂道を登ることもできませんから、資材の運搬はみんな牛車と人間の背中だけに頼りました。すべてがそんなことでしたから、1枚3銭の瓦を運び上げるのに運搬費が1枚につき5銭にもなりました。そんな時代でした」

昭和17年(1942)の終わりに療養所は一応の建設を完了、翌年昭和18年(1943)に念願の開業の日を迎えた。

しかし、戦況が悪化し、医薬品の入手も入所者の食糧の確保も難しくなったため、大変な困難を乗り越えて開業した療養所は、昭和19年(1944)にやむなく閉鎖された。

再び原峠に子どもの声が戻ったのは、戦争が終わって数年が経ってからである。

再開した園の様子

昭和23年(1948)に児童福祉法が制定され、当時の長野県知事 林虎雄氏から施設の再開を強く要請された。

知事から「良い返事を貰うまで帰って来るな」と命じられた衛生部長(当時)の高野武悦先生は 、松井鳳平のもとへ何回も足を運び説得に努められた。

最初は「その器ではない」と固辞していた鳳平だったが、面会を重ねるうちに、高野先生の人柄に感じて療養所の再開を決心した。

昭和24年(1949)9月、療養所は定員50名の『虚弱児施設私立上田福祉園』として再発足した。

園長松井鳳平は62歳。この頃の入所児には戦争の影響が色濃い。

園に残る記録には「父戦死、母肺結核死」「父母戦災死」「父未復員」などの家庭事情が記されている。ひどい栄養失調症のうえ肺結核に侵されている児童が大部分であった。

そんな状態の子どもたちに栄養を摂らせるため、所有の山林を開墾して畑を作り、官林(国有林)を借りて野菜畑牧草地を拓き、四頭の乳牛を飼って子どもたちにその乳を飲ませた。

牛の厩肥(きゅうひ)は山の畑の痩せた土の土壌改良に使った。

さらに綿羊やアンゴラ兎を飼育し、刈った毛を加工業者に渡して毛糸と交換する。園長命令で職員が編み物教室に入学し、園長に買ってもらった編機で職員がセーターやチョッキを編んで子どもたちに着せた。

また、この頃は水道がなく、生活用水の確保が大変だった。

最初は舎の東側の 100メートルほど離れた山中の湧水を、土管を埋設して貯水槽へ引き込み、濾過槽を通して使用していた。

土管は継ぎ目に草の根がはびこると水が通らなくなって、大変苦労した。後にはヒューム管に交換した。

風呂用には雨水を利用したが、三好町の銭湯まで歩いて行くこともあった。

山を下りきったところにある農業用水路「六ヵ村堰」まで洗濯に行く、というように、園内に井戸を三か所掘ってもなお、水は不足がちだった。

現在も井戸の傍らに建つ「山では一滴の水も血の如し」と書かれた木標が、その苦労を偲ばせる。

水の問題の解決は、昭和39年(1964)上田市水道局の協力を得て、保養園より1000メートル下方に通っていた県営水道から上田市の水道をリレーして原峠に水を揚げる揚水設備と貯水槽が、土地を完成するまで待たなければならなかった。

生活用水確保もさることながら、再開にあたって鳳平は防災を第一に考え、山の沢をせき止めて防火用の池を二か所、園の近くに造った。この造成工事では、農閑期に近隣の農家の人手を頼み、やっとのことで土手を築きあげたものの、直後の大雨で土手が襲れ初めから造り直すということが一度ならず二度繰り返された。

この池は山火事の際は消火用水の水源になり、畑の作物の水やりに大いに役立っていた。

温暖化以前の冬は子どもたちのスケート場になった。

電話は昭和27年(1952)まで無く、郵便・新聞の配達も無かった。郵便・新聞は三好町の松井医院まで毎日職員が持ちに歩いて受け取りに通った。

教育活動の変化

戦後間もない物資の乏しいなか、園長はじめ職員たちの、まさに知恵と力を尽くしての奮闘により、ほぼ自給自足の生活だった。

衣・食の問題はどうにか解決することができたが、入園中の学齢期の子どもの学校教育については、県に教員の配置を願い出たものの、未解決のまま7年が過ぎてしまった。

この間、健康上通学が可能な子どもは、上田市立城下小学校と上田市立第二中学校へ通学していた。

結核治療のため安静を守らなくてはならない子どもは、園内で宣教師の田中浜平氏に勉強を見て頂いていた。

しかし、通学している子どもは級友から「保養園の浮浪児」「肺病」などと心ないからかいを受けて辛い思いをすることもあり、園内で学習する子どもには勉強の遅れへの焦りや、進級や卒業資格などへの不安があった。

それは療養のうえでも見過ごせない障害となっていた。

県へ何回もの陳情のすえ昭和32年(1957)に、林虎雄知事の計らいや県教育委員会、上田市教育委員会の理解ある処置によって、ようやく園内に上田市立城下小学校と上田市立第二中学校の分室が設けられ、小・中各一名の教員の配置が認められた。

早速、私有地の山の木を切って、その材木で園内に教室を増築したので、療養中の子どももベッドに寝たままで特別授業を受けられるようになった。中には卒業証書をベッドで受け取る生徒もいた。

分室設立にあたっての初代の教員(小学校担任・南沢忠雄先生、中学校担任・上原久雄先生)を伴って保養園を訪ねた日のことを、当時の上田市立第二中学校校長 宮下哲之助先生は、「担任職員を連れて挨拶に行くが、松井鳳平園長は『園の子どものことは園長が一番わかっている、(それなのに)その園長になんの相談も無く決めて連れて来るとは』と受け入れられず、牧草畑で時を過ごし、再度挨拶に行きやっと承諾してもらったと後日語っている。

様々な事情を抱えた子どもたちに接する人は、誰でも良いというわけにはいかない、人物性格を園長として確かめてから受け入れたいということだった、と思われる。

こうして、保養と教育が並行して行われる仕組みが出来上がった。

園を訪れた記者のことば

分室開設の年の春に原峠を訪ねた北信毎日新聞の記者は、次のような記事を残している。

一部を抜粋する。

夢のあと

「まず外から見てもらおう」と入口左手の小高い所に案内してくれた。そこには『夢のあと』と大きく刻み、その下に小さく『松井無為』『1955年4月』とある、苔むした大きな自然石の碑が建っている。

「これはこの間建てたばかりの私の墓だよ。そこに井戸を掘ったら五間ほど下から海底の砂利と思われるものが沢山出て来た、この山上から海底の砂利だ、この辺は第三紀層で、何万年か前に海底だったのが何時の間にか隆起して、今は山となったもの、大自然の悠久さに較べると人生などはまさに一瞬の夢だ、長生きしたの短命だのといってもそんなことは大したことはない、私も若いころ市会などで随分活動したが、それもこれも皆夢だ、ただ子供を育てて短い人生のよりよい連鎖を次代に引きつぐ、それだけが我々の目的であり任務であると悟ったからこれを建てたのだ、園児たちにも先生が先に入っているから、君達も日本のどこにいてもこの墓にもどってきてもよいといってある」

と、氏の人生哲学と保養園経営の心構えのほどを語られた。

この『夢のあと』の石は、原峠の山中、桐畑にあった大きな自然石を、園長の指揮のもと園児たちが力を合わせて引き出したものである。

その時のことを卒園生の藤沢次雄さん(S25.12~S31.7在園 R1.8.4没)は、平成21年(2010)に約五十年ぶりに保養園を訪れた時に語っている。

「運び出して来たときはもっと大きくて厚かった。皆で削って今の大きさにした。こうちゃん達とコンクリートを練り、台を造り、削った石を台に載せた」

上田市常磐城の向源寺の和尚さんを招いて「開眼供養の御経」を上げてもらい、園長と身寄りのない子どもたちの御墓が出来た。現在、ここには在園中に亡くなった子どもと、松井鳳平園長、松井正、弟の松井明の遺骨が納められている。

大地万有包容浄化之地蔵也

「夢のあと』を後ろから見守るような場所に子安地蔵が安置されたのは昭和 33年(1952)の こと 。四方吹き抜けの地蔵堂には、次のように彫った額が掲げられた。《大地万有包容浄化之地蔵也」無為・戊戌歳》

再び、北信 毎日新聞の記者の文章に戻ると、 『夢のあと』の碑の前の見晴らしは実にすばらしい、右から浅間、烏帽子、猫岳、四阿、太郎山等の麓々が連なり、目の下には上田市街が手にとるように見える。

市の中央を貫流する千曲川の尽くるあたりに上山田、戸倉温泉の家並が望まれる。

そのまま目を上げれば北アルプスの白雪が陽に輝いて美しく浮いている –と情景を描き、樹木にかけられた野鳥の巣箱がみな子どもたちの手製と聞いて、-〈略〉 一般の人が滅多に来ないこの峠は保養児にとっては物淋しい場所でもあるわけだから〈略〉こども等を楽しませるために四季折々の花を絶やさぬようにしてやりたい〈略〉その手入れを保養児たちにまかせることにしたらいかがか。

巣箱をかけて野鳥を可愛がるこどもたちだから、きっと花の咲く木も大切にすることだろう–と書いている。

その思いは鳳平にもあった。

色鮮やかなレンゲつつじや山吹を土手一面と庭に植え、梅、柿、胡桃、栗などの実用の果樹を植えた。

原峠の山に自生している日本春蘭の花を塩漬けにし、男性の訪問客には蘭の花の茶を、女性の客には桜の花の茶を出しておもてなしをするというような趣味人の面もあった。

記者は—-仙境の気分を満喫した—-と書いている。

記者の書いた情景は、原峠保養園の「園歌」にも歌われている。

園歌を作ることを思い立った鳳平は、友人の山浦氏に相談、当初は専門家に依頼しようとしたが、高額の謝礼(当時で30万円)が必要だと分かって断念し、県立上田高校の音楽教師の兎塚先生に助言をあおぎながら、曲は厳美歌312番(いつくしみふかき)を借りて歌詞を自作した。

園歌

卒園式で歌う「別れの歌」も讃美歌405番(かみともにいまして)に自作の歌詞を付けたものである。

鳳平はキリスト教信者ではなかったが、園歌からもキリスト教の影響が認められる。

鳳平には男三人女四人の子どもがあったが、三歳で夭逝した三女の葬儀に讃美歌が歌われた(二男正談)、また救世軍の山室軍平氏と交流があったことからも、キリスト教の思想に共感を抱いていたことが想像される。

鳳平が園児たちに示した『園のきまり』は『嘘をつかない、ごまかしをしない、人を愛する』の3つであった。

入所児童の様変わりと記念碑建立

レリーフ

昭和40年代に入り、「もはや戦後ではない」と言われるようになった頃から入所して来る子どもたちの事情に変化が見られるようになった。

高度経済成長と生活水準の向上から、結核性疾患や絶対貧窮者の数が減少するのと反対に、神経症・自律神経失調症と診断された児童や情緒障害と呼ばれる精神的徴候を持った児童が増加してきた。

昭和40年(1965)頃から中学生が小学生の数を上回り、登校拒否児の入所が多くなった。

異なる事情を持つ子どもが混在するようになったが、園長はすべての園児に同じ態度で接した。

当時、登校拒否児に対しては対応の方法が模索されていたところで、精神病と捉えて投薬治療をされたり、あるいは本人の怠け心、意志薄弱と捉えてスパルタ式療法(戸塚ヨットスクールなど)が試みられたりしていた。

登校拒否児として入所した際、園長から「おまえは悪くない、親が悪いのだ」と言われて、救われた思いがしたと振り返る卒業生は多い。

また、「本を読め、手に職をつけろ、職人になれ」と技術を身に付けて自立して生きて行くように勧めた。

そのような言葉を聞いて成長した卒業生の一人藤原正和(S34.4~S42.3在園 H23.1.9没)さんが、昭和48年(1973)の夏「高齢の園長先生が健在のうちに俺たちのオヤジの碑を造りたい」と申し出た。

鳳平は昭和44年(1969)から園内の自宅で病気療養中であった。

発起人は藤原正和 (22歳)左官、松本信一 (24歳)大工、春原勝行(21歳)農業の3人。卒業生73名から寄付金 46万円を集め、特別寄付金も加え、同年夏から手作りの工事が始まった。

工事中に来園した柳沢時介氏(松井家の知人)よりも特別寄付が寄せられた。

碑にはめ込む松井鳳平園長のブロンズ製の実物大頭部レリーフは、上田市染谷の三戸部武彦氏(61歳)が無償で制作を引き受け、建設についても助言協力された。ブロンズ鋳造は高木栄次氏。

三戸部氏は、その10数年前から友人たちのグループを連れてクリスマスに保養園を慰問、子どもたち一人ひとりにプレゼントを下さっていた。

また、卒業生たちとも交流を続け、人生の相談役にもなっていた。

翌年の昭和49年4月28日。 園庭の一隅に完成した碑の除幕式が、青空と満開の山桜の花の下で行われた。

卒業生40名、在園生32人が集まり、鳳平の孫、里枝(9歳)と里穂(7歳)が除幕。

この頃には寝たきりになっていた鳳平も、椅子に腰かけたまま庭に運び出されて式を見守った。三戸部武彦氏には卒業生から感謝状が贈られた。

昭和44年 (1969)鳳平が療養生活に入ったのとほぼ同時期に、原峠保養園は私立から社会福祉法人へ移行した。

二男松井正は、昭和34年(1959) から上田第二中学校原峠分室に勤務しており、昭和38年からは結婚を機に原峠に居を移していた

保養園の経営は次第に次世代に委ねられ、老朽化した食堂棟、園舎棟、事務所棟などが順次建て替えられ、体育館も増築された。

松井正の言葉

「自然は、その子の好みに合った情報を豊富に提供して材料を備えてくれる」

「感情を出せない子、自然を見ることが出来ない子、等々は大人の責任である」

記念碑落成の翌年、昭和50年(1975) 11月1日、89歳の誕生日を半月先にして、松井鳳平は88歳で永眠した。

松井幸枝 (鳳平の⼆男 松井正の妻)