保養園の歴史

松井鳳平
原峠保養園は、昭和12年頃、当時亡国病とまで言われた結核に対処するために、医師「松井鳳平」が小児結核の療養所を建設しようと思い立った時にはじまる。 大気と安静に格好の地を探して、小牧山の原峠地籍の山林の買収がやっと進み、いよいよ建設にとりかかる段取りになるころは、太平洋戦争が勃発して統制がきびしくなり、軍需以外の建設資材の入手に困難を重ね、また山林の中のこと故急坂に加えて道路も整備されておらず、それに代燃車のこととて坂を登ることができず、専ら資材の運搬は牛車と人の背に頼り、瓦1枚が3銭で運搬費が1枚5銭につくなどの運搬にも困難を重ね、一応の建設が完了したのは昭和17年の終わりであった。

6名~7名の子供の療養を三好町の自宅(医院)から通って始めたが戦争が激しくなり医療品の入手もままならずまもなく療養所は閉鎖した。
戦後のだれもが食うや食わずの混乱期、昭和23年に児童福祉法が制定され、当時の長野県知事 林虎雄氏から施設の再開を強く要請され、翌年の9月5日「虚弱児施設」原峠保養園として再発足することになった。
ほとんど全部がひどい栄養失調症のうえに結核に冒されている状態であった。まず解決しなければならない問題は、いかにして食糧を調達してこれらの児童の空腹を満たしてやるかということであった。
そこで所有地の山林の開墾を行って牧草地や野菜畑を作り、4頭の乳牛を導入して栄養供給源とし、またその厩肥を畑に入れて土壌の改良を計り、その結果逐年収量を増加させて所期の目的に近づくことができた。

「父母戦災死」「父未復員」「父戦死、母肺結核死亡」と言うような事情の入園児であるから、着のみ着のままの児童が大部分であるために、いくらかでも衣料自給の計画をたて、めん羊やあんごらうさぎを飼ってその毛を加工業者に渡して製品と交換して、児童に暖かく着せるくふうもしたのである。

衣食の問題は、どうやらまがりなりにも解決することができたのであるが、入園中の学齢児の学校教育については未解決のままに7年余が過ぎ去った。この間、健康上通学可能の者は、城下小学校と第二中学校に通学したのであるが、学校で「保養園の浮浪児」とか「肺病」などと級友に言われ、そのために朝、保養園を出ても学校には行かないで、山中で一日を暮らし適当な時刻に帰ってくる子供もでてくるしまつであった。一方病気のために通学不能の子供達は、学業のおくれや、進級にかかわる心理的な不安と焦燥は、健康回復にも少なからざる影響を及ぼすことになり、療養上一つの障害となっていたのである。
昔の保養園
昭和32年になって、ようやく上田市立城下小学校と上田市立第二中学校の分室が設けられることになった。
山の木を切って教室が保養園内に増築され、小・中各一学級、選任教師も各一人ずつ配置されて、保養と教育が並行して行われるしくみが作られたのである。

その後、昭和36年には独立したささやかな教室(市庁舎の古材で)が新たにでき小さいながら運動場も峠の頂上付近に作られた。分室が設置されはじめたころは、まだ「父肺結核死亡、母生死不明」とか「父母肺結核死亡」という気の毒な子供が多くいたので、ベットに寝たままで特別授業を受ける生徒もあり、卒業証書もベットで受け取らねばならぬ生徒もいたのである。

戦後も終わりに近づき、医療の進歩やいわゆる高度経済成長の進みなどにしたがって、入園生の質に徐々に変化が見られるようになってきた。
その一つは結核性疾患や絶対貧困の者が順に数を減じてきたことであり、それに対応するかのように、自律神経失調症や情緒障害児(このなかに学校恐怖症とか学校忌避症などもある)とか呼ばれる異常な精神的徴候をもった者が増加してきたことである。
名ばかりの経済成長の進展は、利潤追求第一主義の考え方に陥って、人間の基本的要求を軽視してそのうえに成り立ち、学歴偏重の社会的風潮がまたこれに輪をかけて、尊重さるべき人間が物にまで成り下がってしまい、画一的な教育がおこなわれるところ、学校教育に対する不適応現象を起こす生徒が出てくるのは、多かれ少なかれ、どこにも見られる実情である。

児童相談所を通して入所してくる「長欠、不就学」による生徒の、社会調査診断、心理学所見診断、総合的診断が、このへんの事情を端的に物語っている。
入所した児童の一例『小学校6年の頃から頭痛、吐き気を訴えて、欠席、遅刻、早退が続くようになった、家庭環境の良い中学一年生が、母親の過干渉による情緒障害の診断で四月入所してきた。
連れて来た母親が帰るときも、あとを追って泣くのがたいていの生徒の例であるのに、彼はいっこうに平気であった。
知能はすぐれているのだが、入所してからも顔色はさえず落ち着きがなく、学習も手につかぬ状態であった。
そこで学習以外のときはつとめて戸外で遊ばせるように指導しているうちに五月になり、きれいな空気をいっぱい吸って林のなかをかけめぐるようになってから、食欲も増して全体が生き生きとしてきた。
昔の保養園
それにつれて学習態度も意欲的になり、草花を育てたり農園の野菜作りの手伝いで土に親しむようになった。健康体にもどって退園してもとの学校へ行ったが元気に登校できた。
この面では、原峠分室の教育はいくつかの有利な条件が備わっていた。(42年2月に発行された信濃教育に宮下哲之助先生が、医師である園長がそこに居住し、園児と生活をともにし、「保護指導の経過」が克明に記録されて適切な指導がなされている点、教師の一人も園に居住しているので、園と教室の連絡がきわめて密である点では、ほかに類を見ることのできないところである。と記している。)

そして都市からも農村からもはなれているので、平常阻害されている安静を充分味わうことができ、太陽光線を吸いとることも自由で、林や畑の中で素朴な自然と人間の語り合いを回復することも可能で、干渉過剰な家庭や学校から開放されるのでワークブックや通塾の重圧からのがれることができるのである。
そのうえ、同一年齢集団の大きい学校系列のなかで味わうことのない、小さな生活集団のなかでの人間どうしの生活協同体的な生活経験を豊かにすることができる。
昔の保養園
41年度から中学校分室は二学級編成に、45年度からは三学級編成となり、また小学校分室も64年には二学級編成になった保養園の建物も、昭和45年に食堂棟の改築が、48年には園舎棟の改築、54年には体育館が増築された。
だが独立した教室が不足しているので保養園の建物の一部を利用して授業が行われていた。

昭和58年新校舎(上田市)がやっと建設されたまた、保養園入所者の質的変化は園も分室ともども多様化に応じた新しい方向づけを余儀なくされてきた。
本来健康回復の施設であったときは、これで大丈夫というときは指導的な立場にたてる者でも、学期の途中であっても、母校へ帰してやり、また新しい病弱生を迎えるのである。

喜ばしい悲哀を味わうのはこのときである。運動会や卒園式に成人した退園者たちが大勢出かけて来て励ましてくれるときは、何ともいえぬ感激を覚えるのである。
ほとんど毎年訪ねてくれる卒園生、何十年ぶりかにひょこり元気な顔を見せてくれる卒園生、昔の話を楽しんで、昔遊んだ野山を一回りして帰って行く。