山火事

マッチで火事に

昭和32年の春、鳳平は眼底出血で臥床していると「山火事だ、峠の向こうが燃えている、もう少しでこっち側まで焼けてくる」と、息せき切って知らせてきた。

折悪しく職員が長野へ出張していていたり、帰宅した後で男の大人がいないため警察と消防署に電話して大至急応援方を頼んだ。

消防団員たちが来た時には既に三反歩ほどの新植地帯が焼けており少年たちが必死になって消火していた。

その少年は保養園の子供たちで「神様どうぞこの火を消してください」と祈りながら消したのだそうである。

出火の原因を調べた際「僕がつけました。きのう町に用たしに行ったとき薬屋でマッチをくれたからポケットに入れ、そのまま忘れていたのを何気なく取り出して擂ったところ火が急に燃えひろがったのであわてて消したけれども疲れ果てて倒れた。

それで神様にお祈りしたらだんだん火が鎮まりました」と答えた。親も兄弟もいないような児がこうも純情で正直なのは珍しい。>

これもひとえに園長の薫陶がよろしいからだ、と係官から褒められたと(S32年北信毎日新聞記者の記事にあったもの。) 係官から子ども達を強く叱らないでともいわれたそう。

落ち葉にタバコの火が

松井 正家は新築され、そこで生活していた。ある晩、寝入っていたら玄関のチャイムが鳴った。

何事かと、玄関に出てみると消防団員が「今、火を消してきました」と。

その話によると、18号線を歩いていた人が山に火柱の上がっているのを見つけ、消防署に連絡。 消火してから我が家へ知らせに来た。

その日は風が無く、火柱はまっすぐ上がっていたとのこと。ガーデン小屋全焼(耕運機他農具置き場) 翌日の取調べの時、子ども達が夕方タバコを吸って歩いている人を見たとのこと。

原因はタバコのポイ捨てと分かった。

高校生がタバコ

女子高校生が慌てて山からかけて来て、「バケツ貸して下さい、水ください」と「どうしたんだ」と聞くと「タバコの火で山が火事に」・・・「松井正」は、慌てて子ども達を呼び集め、一人一人にバケツを持たせバケツに水を入れ、山へ走らせた。大ごとにならず消し止められた。

昭和62・4・23(1987)の山火事

このころ上田市では太郎山をはじめ、あちこちで山火事が発生していた。

「松井 正」は、「県児童福祉連盟・施設長会」が松本市浅間温泉で開催されていて会議に出席して留守だった。

太郎山の火事が広範囲が燃えているのに驚き、家に戻った。

そこに「保健婦の山崎さん」から電話、「今、有線放送で、長野大学裏山から出火の放送がありました」との知らせを受ける。

早速、庭に出て、南の空を見上げると、空一面薄いピンク色、まだまだ火元からは遠いと思いましたが「松本に居る松井」に電話すると「すぐ帰る」と返事。

(そんなにすぐに帰ってこなくもいいのに)と思いながら気になったので、再び庭に出て空を見ると、空は真っ赤に変わっていた。

職員に、「児童に身支度をしっかりさせて、部屋を整理して待つ」よう児童に伝えることを告げた。

火の炎が山の上に見えるようになったので、避難場所を考え、一応スイミングクラブの庭へ(大勢が避難できる広い場所へ)と決めて避難。

庭に全員を集合させ、身支度を確認(大きなぬいぐるみを抱えた児には置いていくよう伝え)山を下るおり、気がつくと職員全員も児童と行動し下り始めたので、男性1人、女性1人の2人に残るよう声をかけた。

保母には、「あるだけのポットに湯を沸かして入れておくように」頼む。

指導員には室内の点検を。そこへ、「長野大学の学生」が「何かお手伝いすることあったら」と「太郎山の火事」を見に行った帰りに来てくれた。

「児童施設」の存在に気が付き途中から引き返して来たのだという。

「幸枝」は購入したばかりの黄色いトラックを、下の車庫から上に移動してあったのを、学生に庭へ移動してもらい「重要書類」を、保母の用意したお茶箱に入れ、搬出。

(高齢の職員も助手席に同乗) 避難。

一応、スイミングクラブ駐車場へ。(スイミングクラブの皆様には連絡もせず本当に失礼しました。)

その後、避難していた児童は、御所の方々のご厚意でスイミングクラブの駐車場から御所の公民館へ移動、1 泊させていただき、朝食もいただき園に戻ってきた。(上田市市会議員の選挙運動中、選挙事務所として公民館が使われていたので、炊き出しをしていただく。)

原峠に、一番に駆けつけて来たのは、「ガス会社」。

プロパンガスボンベを庭に移動。(建物から離れた場所へ)

次第に、薄暗くなり始めたので、職員と幸枝で園舎棟・松井家の電灯全てを点灯。

やっと消防車が到着、幸枝は消防団員に、消火栓・池の場所を案内する。

来られたのは室賀地区の消防団、可搬式ポンプを持って池の土手に据え付け消火に取り掛かる。

池の水は瞬く間に減る。

2 箇所の消火栓から、池に水を足し補いながら消火。

火は、峰から下り始め、松の木に火が移るとパチパチとすごい音で燃え上がる。

園の建物に燃え移るかは時間の問題と心配になった。

その頃、「松井正」は久保峠を越え、山を見ると、山全体が真っ赤に燃えているのを見て保養園はダメかと思い、交通規制で回り道をさせられ、六か村セギまで来ると、(原峠の登り口) 知り合いの消防団員に「先生だってダメ」と車を下ろされ歩いて登って家に帰って来る。

家に荷物を置き、早速、可搬式ポンプの様子を見に行っていた。

山の中腹まで燃えた火は消し止められた。

完全に「鎮火が確認できるまで」と外に居る消防団員の皆様に、保養園の食堂に入ってもらう。

そこへ、太郎山の消火に携わっていた消防団員も原峠の火事を心配されて駆け付けた。

皆様おつかれで、食堂のいす、テーブルを寄せ床に横になる。食堂は消防団員でいっぱい。

駆け付けた、栄養士山浦の音頭で炊き出しを始める。

ガスは、取り外してあるので、松井宅の電気コンロ、携帯用ガスボンベを使ってご飯を炊き、おにぎりに漬物を添え、食品庫にある果物の缶詰を切って出す。

沸かしてあったお湯でお茶を。果物の缶詰は、のど越しがよく大変好評。棚にあった缶詰全部出す。

「松井 正」の娘(里枝・里穂)も休みを利用して神奈川県から、久保峠を越えて、原峠を見ると真っ赤な炎、家は焼けてしまったかと、交通規制で大きく回り道をして帰ってきた。

火は下火になっていたので家まで車で帰られた。

二人とも、さっそく炊き出しのお手伝。 (後日、消防団の皆様から「ジュース1箱」いただく。) 

残っていた指導員と駆けつけてきた指導員の2人は電話の応対にかかりっきり、特に報道関係からの電話は長く大変だったと聞く。

災害時の電話の使用について注意が必要。

職員間の連絡、緊急連絡網の扱い方、はよく考えておく必要がある。

鎮火の確認も終わり、消防団員も引き上げた。