学校教育

この原稿は、昭和32年、北信毎日新聞の記者が書いた「夢のあと」と昭和42年発行の「信濃教育」の中の宮下哲之助先生が書かれた「原峠保養園と原峠分室」松井正から聞いたことをまとめました。

当時の入所児は、「父戦死、母肺結核死」「父母戦災死」「父未復員」などの家庭事情により、ひどい栄養失調症のうえ、肺結核に冒されている児童が大部分だった。

一日の生活も、病状により「1日中安静」「午前中安静」「○時間安静」と決められ床について、食後の薬もそれぞれに差があって、毎食後職員が配り服用していた。

学令児の教育には、宣教師(田中浜平氏) をお願いして面倒を見てもらっていた。

食前の「お祈り」の習慣も宣教師の指導によるもの。病気が快復し、前在籍校に戻ることになった児童の受け入れは、学校により 進級・卒業を認められ元の学級に戻れる児童、認められないで留年させられる児童がいた。

その様々な対応の違いは療養している児童には不安を与えた。

そこで「松井鳳平」は、教員の配置を県へ願い出たが未解決のまま7年が過ぎた。

この間、健康上通学可能な児童は上田市立城下小学校と上田市立第二中学校に通学。

しかし、級友に「保養園の浮浪児」「肺病」などとからかわれ、朝、お弁当を持って出掛けても学校に行かず、山中で1日過ごし適当な時間に帰ってくる児童も出た。(学校からの問い合わせで欠席していたことが判明した)

一方、病気のために通学できない子供達は、学業の遅れや進級に関わる心理的な不安や焦燥が、健康回復に少なからず影響を及ぼし、療養上の一つの障害になっていた。

県へ何回もの陳情の末、昭和32年(1957)に、時の県知事・林虎雄氏の計らいや、県教育委員会、上田市教育委員会のご理解ある処置によって、ようやく上田市立城下小学校と上田市立第二中学校の分室を設け、教員の配置が認められた。

『担任職員を連れ保養園園長に挨拶に行くが、松井鳳平は〈園の子供の事は園長が一番わかっている、その園長になんの相談も無く決めて連れて来るとは。〉と受け入れず、牧草畑で時を過ごし、再度挨拶に行きやっと承諾してもらった。』と当時上田市立第二中学校校長「宮下哲之助先生」の後日談。

「松井鳳平」は早速保養園内に、私有地の山の木を切って教室を増築した。

小・中各一学級、専任教師も各一人ずつ配置され、保養と教育が並行して行われる仕組みが作られた。

その後、昭和36年(1961)に、保養園の建物とははなれた場所に独立した今の教室が、上田市市長舎の廃材を使い建てられた。

上田公園内に野積みして置いてあった市長舎の廃材を、大工の野村さんと松井正が現場へ行き、柱、床板などと分類し使用出来る物を上田市のトラックを借りて運び上げた。

市建築課の指導を受け教室の柱は、建築基準法の規定に合うよう添え柱をして使用した。

はがしてあったベニヤ板は、ほとんど使用不能。 昭和34年(1959) 9月超大型台風が伊勢湾を襲いベニヤ板の生産地が壊滅的な被害を受け、ベニヤ板の入手が困難でした。

「今日は○○円だが明日の値段はわからない」と言うことで予算が立たず、小諸市の材木商「柳田さん」(松井正の上田中学時代の友人)に相談、天井は耐火ボード使用に決め「柳田さん」の力添えと協力を得て確保できた。

外壁の腰板は柱を第二中学校職業科の機械を主任先生から使用許可を得て、柱を板にした。(「松井正」も第2中学に勤務していた)

寒さを防ぐため壁との間にセメント袋を挟むなど、大工さんと協力し、塗装は園児も協力手伝って建てた。

小さいながら運動場も峠の頂上付近に作られた。(食材の入手も容易になって、畑から運動場に変えた)

昭和47年度(1972) 園舎棟改築の折、業者の好意で大型重機を峰の頂上まで運びグランドとして使用できるように整地してもらい、 そのグランドを見た卒業生(木内清志君S36~45年在園H31.4没)が大型重機をわざわざ持って来てグランドを更に広げ整地してくれた。

分室が設置された昭和32年(1957)当初は、まだ「父結核死亡、生死不明」「父結核死亡」などの家庭事情の子供が多く、また、ベッドに寝たままで授業を受け、卒業証書もベッドで受けとる子供もいた。

入園児の質に変化が見られるようになったのは、「もはや戦後ではない」といわれはじめた頃から。 結核性疾患や絶対貧窮者の数が減少し、それに比例するかのように、神経症・自律神経失調症と診断された児童や、情緒障害と呼ばれる精神的徴候を持った児童が増加してきた。

昭和39年(1964) 初めて、登校拒否児が入所

昭和40年(1965)頃から、登校拒否児の入所が増加して中学生が小学生の数を上回った。

昭和41年 (1966) から中学校分室は二学級に、昭和45年(1970) からは三学級編成に。

昭和54年(1979) 小学校分室も、二学級になった。

入所児童の増加、特に中学生の増加に伴い教室が不足したため、保養園の建物である体育館の器具置き場、更衣室を臨時の教室に使用せざるをえなくなり、上田市に新校舎建設を再三再四陳情、昭和58年(1983)になって、上田市が林道開設に「松井正の私有地」との交換条件で、やっと新校舎の建設が約束された。

当時の市長永野氏は引き続き建設するとのことだったが上田市は工事半ばで終わった。

市長当選祝いを蚕専の仲間との会話の中、「続きは無い」の永野氏の話に松井は怒り、「土地は売らない」と言って、宴会半ばで帰ってきた。

翌日、上田市秘書課長が来園し事務室で一日松井の返事を待った。建て終わって「松井の土地使用料は無料で」と上田市から連絡があった。

昭和39年度(1964)までは50人定員で、小学生の占める割合が多く、高校進学よりも就職する児童数の方が多く、中には中学を卒業しても家庭にも戻れず、就職も決まらず、児童福祉法で定められている18歳を過ぎても帰れない児童が何人もいた。

昭和40年(1965) からは45人定員に、この頃から徐々に登校拒否で入所する子供が多くなり、中学生が小学生の数を上回るようになった。

昭和57年(1982) 中学生が30人と半数以上になり、しかも、学年別では中学3年生の占める割合が非常に高くなり、そのため、3月に中学3年生が卒園し家庭に戻ると入所児童数が急激に減り、翌年度初日の4月1日は職員の方が児童数よりも多くなるという現象も起こるようになり、暫定定員が何年も続いた。

昭和58年(1983)からは定員数40名。平成4年度(1992)からは現在の30名定員になった。

登校拒否児が大半を占めるようになった頃は進学率もよく、ほとんどの生徒が中学を卒業し親元に戻り、親元から通える希望する高校に入学できた。

そしてその高校を無事卒業して就職、中には大学に進学、卒業する生徒もいた。

高校を卒業した仲間は皆揃って保養園の「お別れ会」に出席し、中学3年生の卒業を祝い励ましてくれた。

又、「お別れ会」では保養園を去っていく子供が1人1人、保養園での生活の感想を話すことになっていたが、そのなかには私達の心に残る言葉があった。

「親が無くては生きては行かれない」とか、「信じられなかった大人が信じられるようになった」と涙をぽろぽろ流しながら話をした児童もいた。

その児童は後日保養園運動会に来て「松井先生にプレゼントがある。タバコやめることが出来たよ」と言ってニコニコしながら帰って行った。

50年ぶり、38年ぶり、21年ぶり、となつかしそうに突然訪ねてくる卒園生も、ほとんど毎年顔を見せてくれる卒園生もいる。

原峠保養園の大きな特徴は、学校が併設されている事。

少人数で個人個人にきめ細かい指導が受けられる、という保養園の特徴を児童相談所では相談に来る児童の親、兄童本人に説明をしていた。けれど、残念ながらここ数年は、高校には進学できても、一学期ももたないで休学、退学してしまう子供の方が多くなってきており、必ずしも保養園の特徴を生かしきれていないようにも思う。

不登校児童は今34人に1人といわれ、平成10年ころ長野県内の不登校児は小学生 598人、中学生2,166人であると報道されているが、不登校による児童相談所への相談は最近ほとんど無いとのこと。

そのため、入所してくる登校拒否児の数も減少傾向にあり、代わって親による虐待など多種多様な事情により入所してくる児童が増えた事にも原因があると思われる。

かつて、不登校で入所してきた子供達が立ち直っていった事を思うと、学校が併設されているという保養園の特徴を生かし、様々な事情で入所してくる児童それぞれにあったきめ細かい指導のできるよう分室の先生を受け入れて、保養園の職員とよく連絡を取り合うことが大変重要でかつ大切だと思う。

令和1年6月22日(信州民報)

上田市H30年度 不登校者数274人  教育長答弁 H25年度から増加傾向

令和2年10月23日(信濃毎日新聞)

県内不登校 過去最多

H19年度小中高の計4277人 市町村の「中間教室」が足りていない。

● 年3回の帰省(盆休み、年末年始休み、学年休み)を終え園に来られた親御さんの言葉

「帰省の度に落ち着きが増し、書く文字も以前と比べ物にならない程しっかりしてきました」

「自分から鎌を出してきて研ぎ、草刈りをしてくれた」

「食事の用意や洗濯を手伝ってくれるようになった」

● 音楽会に来られた親御さん、前在籍校の先生、近所の人の言葉

「心に響く歌声を久しぶりに聞き、心が洗われる思いがした」

「子ども達の賢明さと、目の輝きが本当に素晴らしかった」

「我が子も、どの子も一生懸命に取り組んでいる姿を見て涙が出た」

● 運動会に参加した方々の感想

「ヒーローはいなくて、子ども達1人ひとりみんなが主人公

「少しずつ進歩している姿を目で見て安心しました」

● 卒園生から直接聞いた言葉や手紙の中の言葉

「心から笑えるようになった」「原峠には生活があった」「信じることのできなかった大人を信じる事ができるようになった」「今思えば、人生を学ばせてもらった」「自然の美しさを知った」

「同じ年代の人達が知らないことも、自分たちはここにいたからいろんなことを教わった」

(文中の児童に関する数字、児相の状況などは執筆時)